私の子ども時代、つまり今から半世紀ほど以前、イチゴは春の限られた時期にしか、口に出来ない果物だった。
いつからか、年中スーパーに行けばその姿を眺めることが出来るようになった。
たまに娘が里帰りするときなぞ、我が家の冷蔵庫には、家内が用意した香りの良い赤い実が食卓への出番を待っていたりする。
不思議とイチゴが食卓を飾るときは、家の中が上手くいっているときのような気がする。
なぜなのかは、わからないがあの赤い色は、平安な時の象徴なのかもしれない。
今日は、買って帰ろうと思う。
私の子ども時代、つまり今から半世紀ほど以前、イチゴは春の限られた時期にしか、口に出来ない果物だった。
いつからか、年中スーパーに行けばその姿を眺めることが出来るようになった。
たまに娘が里帰りするときなぞ、我が家の冷蔵庫には、家内が用意した香りの良い赤い実が食卓への出番を待っていたりする。
不思議とイチゴが食卓を飾るときは、家の中が上手くいっているときのような気がする。
なぜなのかは、わからないがあの赤い色は、平安な時の象徴なのかもしれない。
今日は、買って帰ろうと思う。
記録的な暖冬のようである。
北の街では、今日から雪まつりだという。
人というのはどうも不思議なもので、その季節にあった様子でなくては塩梅が悪いようで、寒いときには寒くて、暑いときには暑くなければ気が済まないようである。
雪まつりの準備では、片道2時間をかけて雪を集めてきたらしい。ご苦労なことであるしこのところ叫ばれる温暖化に取り組む姿としても、ダンプカーが祭りのために山の中まで走り回る姿は、やはりどこか時代と符合しないものを感じる。
雪のないところでの雪まつりをどうするか、夏の激暑のなかでのオリンピックをどうするのか、などとこの星に生きる人たちが一同に会して考える場がどうやら必要になってきたようだ。
などといってたら、今度は耳慣れない病気が世界中に蔓延しはじめた。まだまだ、拡散が続く様子でもある。
今までやって来たから続ける姿勢と、新たなことへの取り組み。
私たちが生き続けるための取り組みだけは常に新鮮な姿でやってくる。